Hijiri Tougane

はじめに

何も着飾らない、痛々しくも光沢が輝く人間を象った人体彫刻と、経済的不安の一蹴を望んだ器作り、死に直面し現世と来世との関係性の探求最中に生まれていく抽象作品、これらすべての作品は一本の縄で繋がり合っています。私が作品で伝えたいことは、万物は対極の要素で成り立ち、目で見えるものはほんの僅かで、どんな時代でも人の誰しもが愛情そして平安を求めているのだろうから、それの助けとなる作品、心が豊かになる作品、そして次世代に残せる作品を作っていきたいと私は思っていると言うことです。

《 第一章 》2010年〜

生写人体陶彫刻

はじまりの地はサンフランシスコ

私、東金聖は裕福な家庭で育った。幼少期から物質的な豊かさに恵まれていたが、家庭環境や人間関係に悩むことが多かった。サンフランシスコにある美術大学に入学し、「物」をアートの被写体とするのではなく、「人」に焦点を絞った。人の気持ちを理解する事に対して困難を抱いていたが故に興味の対象となったのだと振り返る。

私が彫刻科へ進むきっかけを与えてくれたのは、とあるヘレニズムの彫刻だった。クリーム色の大理石でできたその彫刻は、学生だった私の心を揺さぶり感動させた。命のない物にも関わらず、今にも動き出しそうなその生々しさや迫力と、過去に存在した人がまさに今この場所で一緒にいる様な臨場感が心に衝撃を与えた。時代を超えて新しい世代の人に感動をもたらす彫刻の素晴らしさに触れ、私は見る者の心を動かす事ができる彫刻をつくると決意した。

作品を残し続けられる素材を模索し、何千年先にも残る素材である「陶」に出会った。陶はまた、私が残したいメッセージを描くのにも適していた。私が彫刻で描きたかったのは「人生を歩む過程で生じた傷こそが美であり力強く輝く人の証である」と言う事だった。生々しさを追及し、私が選んだ製法は、生きた人間に直接石膏を塗って型取り、そこに土を押し当てて作り上げる「押し型製法」。釉薬には、経年と共に表面のヒビ割れが広がり深みを増す「光沢貫入釉薬」を選んだ。

被写体となる人選びでは、功績を残したからだとか、単純に容姿がいいからだとかの理由は避けた。私は偉人や貴族の銅像を作る彫刻家ではないのだ。生物が命を持って生きていれば、必ず困難に直面する。経済的に恵まれていても、人には理解されない悩みもあるだろう。どんな人も生物も、常に死と隣り合わせで生きていると言う事自体が、この宇宙にとって感動的な事なのだと私は思っている。「今を生きている」。たったこれだけで誰もが彫刻になると私は考えているのだ。ヘレニズムに象られた「老婆の彫刻」のように、私が出会う身近な人々をありのままの姿で作品に残したいと、学生だった私はこうして彫刻家としての方向性を定めた。

人体彫刻を作り始めた当初の私は、作品の売れ行きの事は全く考えておらず、誰が買うのかはこれっぽっちも考える事をせず、ひたすら大掛かりな作品を作った。それは、幼少期から心の問題は抱えていても、これまで経済的な困難が全くなかったからだろうと振り返る。

貫入のひびが全身に走る人体彫刻の、顔と胸の寄り
《カップを片手にダウジングをする認定魔術師》(部分)

《 第二章 》2014年〜

ティーカップ&ソーサー

帰国後、東京から岐阜県美濃焼の地へ

経済的困窮に苦しんだ帰国後のティーカップ作り

2012年、アメリカの経済危機により突然アメリカ滞在権を失い、現地でのアーティストとしてのキャリアも決まっていた私は喪失感に覆われた。幼い頃から「自分は必要とされていない」と感じることがよくあった私が、アメリカで活躍できるようになり、やっと自己を肯定できるようになった矢先のことだった。

東京に帰ってきてからは、その喪失感を埋めるために、娘を思う良心で贈られる親からの生活費を利用し、東京の夜の街へ頻繁に遊びにいくようになった。作家としての志や希望、支える者への感謝の気持ちは失われ、持続性のない快楽に飲まれていった。そんな中で起きたある出来事をきっかけに、両親から破門を言い渡され、私は一瞬にして全てを失い経済的に困窮することとなった。その当初22歳。働いた経験がなかった私は、お金を稼ぐ方法が全くわからなかった。友人の勧めで夜の仕事に就くも、過酷な環境のため長続きはしなかった。

都会から離れることを余儀なくされた私は、幸運にも神奈川の山奥で見つけた戦前から建つ今にも壊れそうな一軒家に引っ越すこととなった。経済的問題や移動距離の問題で都会の頃に会っていた友人たちとは疎遠となり、一人きりの日々は、この命の存在すら疑わせるようになっていった。

そんなある日、私は初めて悲惨な事故現場に遭遇した。事故が起こって間もなかったのか、自転車の警察官が一人、血の海となった路上に大破したバイクと人の下半身だけがあった。私は突然の悲しみに包まれた事を覚えている。「まだ生きたかった」と言うような悔しい感情が押し寄せたが、それはまるで自分の感情とは違っていた。後日、その事故現場へ向かい花を添え手を合わせていたら、なぜだかとても温厚な気持ちになり、爽快感さえも感じた。神奈川に移り住んでからずっと塞ぎ込んでいた私は、この日を境に変わった。

帰宅してすぐにパソコンを開き、日本のどこに行けば、また陶と真剣に向き合えるかを探した。私は間も無く、神奈川から岐阜県美濃焼の地にたどり着いていた。2014年の秋の出来事だった。

岐阜県に移住しても、経済的困窮は変わらなかったので、とにかくここではお金につながる「物」を作ろうと考えた。用途のある掌サイズの器作りはそれに適していた。誰もみたことがない市場を独占できそうな器を作るため、当時最先端の3Dモデリングを用い、ロクロでは作る事が困難なカップをあえてデッサンした。モチーフは繊細な曲線を持つ女性にした。素朴な人体彫刻から一転し、人が着飾る道具として、華やかな中世ヨーロッパの高級家具を現代風にアレンジしたデザインを取り入れた。釉薬は高級な海外の原料を取り寄せ、仕上げには神々しい純金をふんだんに使用することにした。

デッサンを出力したものから型を作り複製を可能にし、作品を商品として作り進めた。しかし、想定以上に開発費用がかかったことと、思いのほか、複雑な形をデザインした故に成形に苦戦した。結局、当初の思惑とは裏腹に、月に数個しか作ることが出来ず、販売価格は原価に基づいても、美濃焼の器としては高額なものとなってしまった。横繋がりがなかった私は、出来た器を友人に手売りする他、バイトで稼いだお金を高額な型と原料の支払いに回すと言った、理想とは程遠い日々をしばらく過ごすこととなった。

必ず切り開いて見せると言う思いが毎回の新作開発費に60万円をかけなきゃならないと言う己が選んだ過酷な現実に押しつぶされ、「頑張っても年に2個程度しか新作は作れないのに個展なんてできる訳がない。作家は諦めるしかない…」とよく弱音を吐いていた。「よく」と言うのはほぼ毎日、何年間も、だ。周りで活躍する陶芸作家によく嫉妬した。心を歪ませながらも「今度は諦めない。諦めたら死ぬしかない」そんなふうに耐え凌ぐ日々だった。

しかしながら、どんな形であれ続けていれば転機は訪れるものである。2017年のある日、InstagramのDMに中国に流通場を持つあるギャラリーから連絡が入った。そこからは作った分だけ器を買い取ってもらえた。新作開発は勢いづき、私は製作数を増やせるようになり、夢にも思えた個展も実現し、器作りはついに軌道に乗ったのだった。

内側に金を焼き付けた、青とピンクのティーカップ&ソーサー
ティーカップ&ソーサー

《 第三章 》2018年〜

魂を象った大型抽象彫刻と絵画

探究心は人やモノから死後の世界へ

疎遠になっていた家族からの知らせが入った。父の命の危機の知らせだった。岐阜に行き、もう一度人生をやり直したいと強く思えたのは、さんざん世話になった父の期待を裏切る形で家を出た日のことを悔いていたからでもあった。ちゃんとした形で作家として結果を残せるあと少しのところまで来ていた最中の出来事に、私はかなり動揺した。父が受ける手術の内容に生存の保証はなかった。私は起こり得る最悪のシナリオを無意識のうちに考えていた。

「死後の世界はあるのだろうか。あると思う。心当たりがある。」私はすぐにあるものを手に入れた。霊能者として有名なアメリカ在住のユーチューバーが紹介していた初代パナソニック製icレコーダーだ。これは、発売間も無く製造が打ち切りとなったもので、世にも珍しい「あの世の人の声」が録音されてしまうというものだった。私は幼少期や割と大人になってからも一般的に言われる霊体験をしていたので、特別それについて考えることはなかったが、父の事を機に死後の世界の探究を始めた。

手に入れたicレコーダーは私の探究心に応えた。私は世にも奇妙な「肉体を持たない男性の声」を録音することとなった。初めてその録音された音声を再生したとき、私は涙して喜んだのを覚えている。声を上げて感謝をした。「ありがとう!!」これが死後の世界の証明の大きな一歩となることは間違いないだろうし、まさに今、死を恐れる父に、死は終わりではない事を伝えられるかもしれないと思ったので、録音に協力してくれた見えない男性がどんな存在であろうと、私は心底感謝した。

私はさらに、この世の存在意味や死後の世界との関係性など、この世の真理を教えてほしいと願った。そしてその後、答えは再び返ってきた。就寝時、眠りにつこうと体を横にしたら、目の前に何千もの星が煌めく宇宙の様な光景というか映像のような世界が目の前に広がった。その空間の中に光と影、黒と白、生と死、愛と欲望、物質と空間、男性と女性といった双方が対極するキーワードが浮上してきた。そして最後に「太極図」が目の前に大きく現れた。

私はこの時、太極図というのはヒッピーか何かのシンボルなのかなという程度にしか理解していなかったのだが、後日調べて初めてそれが「天地万物あらゆるものは陰と陽のバランスによって成り立っている」という意味を持つことを知った。

人間には人間の、独立した魂があるという前提で話をするとすれば、愛というのは人間の死後の世界ではメインの要素のようなもので、人の肉体が自然な形で役割を終えてその肉体で育った魂が行き着く死後の世界は愛に溢れていると私は感じた。欲はこの世の中に君臨している要素で、そんな世の中に愛を見つけられる事が出来て命は育まれている。

人間の中に破骨細胞と骨芽細胞があるように、地球上でも終わる命と生まれる命がある。そして始まる宇宙と終わる宇宙がある。地球があるこの宇宙は、言わばたった一人の人間や生命体のようなものに過ぎなく、人間や生命の魂が、それにとって一種の細胞の様なものなのだと私のなかにイメージが浮かんだ。

命が尽きた後は、死んだ生命たちの愛の魂で構成された隔たりのない一つの世界へと帰っていく。そうしてそれぞれ生物として生きながら集めた情報はその世界の成長の糧となる。一つに戻っていくと言うことは、自分と言う個の概念は無くなるが、自分は一つであった事に気が付くために、今まで愛した人や場所へは時間や空間を返さなくても、もう既に触れられている、そんななんの心配もない世界へ行くだけのことなのだと気が付くことなのだ。

そこへ戻る準備ができていなければ、当然に肉体を離れた瞬間は怖い事のように思うかもしれないが、そんな時は必ず先人が暖かく迎えに来てくれて、そうして元の場所へ着いた頃には安堵感と懐かしさでいっぱいになるものだと思えたのだ。逆を言えば、死後は「自分だけの世界」がないのだからこそ、どのような形であれ、「自分」と存分に向き合い「今」を一生懸命に生きなくてはならないとも言える。この命はそのチャンスなのだ。

一時の迷いで自ら命を終わらせてしまうと、突然起こる「一つに戻る」出来事に動揺し「やっぱりもっと自分でいたい!」と迎えを振り払い体に戻ろうとするものの、戻る器である肉体がないので、魂だけがその場に留まってしまい安らぎもなく彷徨ってしまう状態になるのだと感じた。だから最後まで諦めないでほしい…そんな非科学的な事を私はとにかく父に話した。

私が10代の頃に、父に霊体験の話をしたところ、霊だとか死後に世界があるだという概念に対して否定的だった事を覚えていたので、その時もダメ元で私は話を始めた。恐る恐る話す私を見て父は少しは話を聞いてくれていた様だった。私が録音した例の声を聴くようにと頼んだが、気持ち悪がりその場では聴いてはくれなかったので、後日メールに添付して送ったが、聴いたかどうかはわからないままである。その日父がいつもより元気になっていたことが、私にとって一番大事な事だった。後日、手術は成功し、父は無事退院することが出来た。

黒い背景に浮かぶ、深紅の羽の塊と金の多面体でできた抽象彫刻
《もののけ魂》

愛する事、幸せを感じる事、喜ぶ事、感動する事、怒る事、欲望を掻き立てる事、時として羨む事も、これらはどんな時代を生きる全ての人にとっても、そしてこの宇宙にとっても、魂の成長の糧となる重要な要素なのだと感じている。これらの感情が湧き上がるきっかけとなるような作品を、私は作りたいと強く思ったのだ。それは視覚的なところからでも、秘められたコンセプトからでも、伝え方でも、活動を通してでも何でも良い。父の一件を機に、そう考える様になった。それが私の作家としての役割であり、ごく自然な命の使い道なのだと考えられる様になった。

この文章を書いていて、一つ思い出したことがある。私がアメリカへ渡り彫刻家を志してから初めて作った作品のことだ。

その題名は「傍を笑わす幸せ」である。

口を大きく開けて笑う、日本髪の女性の頭像。台座の断面に青海波の模様と題名の文字
《傍を笑わす幸せ》 学生になって初めて作った課題作品。19歳の時、学校から Emerging Artist 賞を受けた。